人食い森のネネとルル

1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 8 -

 交渉が一段落したところで、朝食の準備に取りかかることにした。
 予期せず豊富に火石リンタイトが手に入ったので、気兼ねなく火を使った調理ができる。うきうきと、かまどに砕いた火石を入れて、押しつぶすようにつちでガシガシと砕いた。直ぐに発熱が始まり、ぐんぐん竈の温度が上がってくる。
 竈に鍋をかけると、中に椎茸、山菜、風乾かざぼしししたきじの燻製肉を入れて、油でさっと炒めた。岩塩と香草で味付けして出来上がりだ。

「ルルも食べる?」

 後ろを振り向くと、ルルはキョトンとした顔で「美味しいの?」と聞いてきた。

「美味しいよ」

 小皿に取り分けて「ほら」と渡してやると、ルルは両手で器を持ってクンクンと匂いを嗅ぎ始めた……。

「別に腐っちゃいないよ。――うん、美味しい!」

 食事は生きることの基本だ。ネネにとってそれは、この森の恵みで成り立っている。いつでも新鮮な食材を、必要な分だけ森からもらっているのだ。美味しいに決まっている。

「本当だ。美味しい」

 そう言って微笑むルルを見て、嬉しいような、切ないような……なんとも言えない気持ちが胸に広がった。

 ――誰かと食事をするのは、いつぶりだろう……。

 長い間一人でいたんだな……と思い知らされた気がした。

「ルルはさ、長い間、沼にいたんだよね?」

「うん」

「あんな狭い檻に入って、沼底にずっと一人だったの?」

「……」

 ルルは虚を突かれた顔をした。
 もしかしたら、ルルが記憶を無くしたのは……、孤独の所為ではないだろうか。
 ネネも此処へ来たばかりの頃は、孤独と静寂に発狂しそうになった日もあった。なんとかやってこれたのは、森に寄り添って生きていたからだ。
 もしも、暗い水底でじっと一人、何も見えず、聞けずにいたら……。
 ルルの境遇を想像してみたら、背筋がぞくりと冷えた。それは想像を絶する、恐ろしいほどの孤独だ――。

 ――ルルの心が悲鳴を上げて、記憶を失くしちゃったのかもな。何も判らなければ、ちっとは孤独を感じずに済むかもしれないから……。

「生きたまま沈めるなんて、酷いことをする奴がいたもんだ。どうせ沈めるなら、殺してからにしろってんだよなぁ?」

 ネネが吐き捨てるように言うと、ルルは微妙な顔をした。無言で席を立ち、ネネの後ろに回ると、背中からぎゅっと抱きついてきた。

「ルル?」

「――食餌していい?」

「――っ、うん……」

 すっかり忘れていた。さっき約束したばかりだというのに……。
 身体中の神経が、背中に立つルルへと向かう。冷たい指先が首筋に触れると、それだけのことで、身体は小さく震えた。カァッと体温が上がり、とても耐えられないと思った。
 ネネは、勢いよく振り向くと、首筋に触れていたルルの手を、両手でガシッと掴んだ。

「待ったぁ!」

「ネネ?」

「食餌って、首じゃないと駄目なのっ!?」

 ルルは小首を傾げると、長い指を伸ばし……、ふに、と柔らかくネネの唇を押した。

「――唇、は?」

 頬がカッと熱くなった。指が唇を割って入ろうとするので、思わず仰け反り、その指を乱暴に叩き落とした。

「馬鹿っ、何で唇なのさ! 首から精気を吸えるなら、手や腕でも、いんじゃないのっ!?」

 焦って喚くと、ルルはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。

「いいよ? 手首でも……」

 手袋をしている右手には、見られたくない秘密がある……。
 左手を差し出すと、大きな手に肘を包みこまれた。むず痒い。我慢しようとしたけれど、親指が肌をすーっと滑り、思わずパシッと音を立てて振り払ってしまった。

「……触っただけだよ?」

「う……、だって」

「ほらほら、腕を出して。すぐ終わるから」

 仕方なく左手を差し出すと、ルルは手首を捕まえて持ち上げた。形の良い唇をそっと押し当てる。

「――ッ……!」

 肌を吸われる。痛くはないが落ち着かない……。振り払いたいのを耐えていると、青い勿忘草わすれなぐさの瞳がネネを捕えた。
 背筋がぞくりと震えて、咄嗟に手を引き抜こうとしたら、強く掴まれた。

「――ごちそうさま」

 ルルは赤い舌をのぞかせて手首を舐めると、ようやく手を離した。その瞬間、呪縛から解き放たれたように勢いよく手を振り払った。

「ルルッ!」

「ネネが言ったんだよ。手首がいいって」

「う、くそっ、馬鹿っ!!」

 悔しそうに喚くネネを見て、ルルは楽しそうに笑った。