人食い森のネネとルル

2章:ルルの秘密 - 8 -

 ルルはネネの頬を愛しそうに撫でると、耳元に顔を寄せて、吐息を吹き込むように囁いた。

「――リヴィヤンタン」

 囁かれた名前が衝撃すぎて、吹き込まれた吐息の熱さを一瞬で忘れた。

「リヴィヤンタン……ッ!?」

「うん」

「――そんなわけあるか。リヴィヤンタンって言ったら、闇の始祖精霊だぞ。お前が、この世に絶望をもたらした、八柱の一つだっていうの? お前が?」

「そうだよ。別に八柱なんていないけどね。その辺りは、ガブール教の捏造ねつぞうだから、あんまり気にしないで」

 ルルは平然と、この国の人間なら誰でも知っている、ガブール教の戒律を否定した。人間を誘惑し、堕落させる忌むべき闇の八柱、彼等の甘言に耳を貸さぬ様、己を律する……というのが、ガブール教の信奉するユミルの教えの趣旨だ。

「嘘だ」

「本当だよ」

「それじゃぁ……、人食い森の監察強化は、お前をあぶりだす為だっていうの?」

「怪奇調査は建前で、不正密猟の取り締まりだなんて裏を読む人もいるけど、発布の通りだと思うよ。私を見つけて、調伏したいんじゃないかな。昔みたいに、ガブール教徒をたぶらかされたら、たまったもんじゃないって怯えているんだよ」

 ルルは楽しそうに笑った。ネネはカッとなって叫んだ。

「お前のせいなの!? お前のせいで、この森に人間がまた来るっての!?」

「まぁ、そうなんだけど……、私を檻から出したのは、ネネだよ?」

「こんなことなら、助けるんじゃなかった!」

「酷いなぁ、何でもお願いを聞いてあげたのに」

「頼んでないっ! お前が、そんな厄介な魔性だとは思わなかったんだ!」

「嘘つき。火石リンタイトをとってきて……って、はっきりネネの口から聞いたよ?」

「あれは、お前が……!」

 ネネはルルを押しのけて寝台の上で身体を起こした。

「お前じゃない。ルルって呼んでよ」

「何で? 名前を思い出したんじゃないの」

 嫌な予感がして、壁際まで後じさった。

「まあね。気晴らしに睡蓮沼を見に行って、調査隊がしていることを眺めているうちに、自然と思い出したよ」

「だったら――」

 ルルは壁に両手をついて、ネネを腕の中に閉じ込めた。

「ネネが意地悪なことを言うから、腹を立てていた。私がその気になれば、ネネをどうにでも出来るんだって、思い知らせてやろうって……。でも……」

「酷いことなら、もう十分されたよ」

 ルルは楽しそうに笑った。

「あれくらいで? ネネは本当にお子様だなぁ」

「だから……! そうだよ……、からかうな」

 声が潤みそうになって、慌てて唇を引き結んだ。ルルは玩具を見るような目でネネを見つめている。優しかったルルは、もう何処にもいないのだろうか――。

「ネネって可愛い。人間なんて餌だと思ってたのに……。この街には因縁もあるし、報復しても良かったんだけど……、全部思い出しても、ネネへの気持だけは変わらなかったな。だから、ネネに免じて大人しくしていてもいいよ」

「――アタシは、アンタへの気持は変わってしまったよ……。もう戻れないし、これから先、一緒にはやっていけない。勝手にすればいい」

 ルルは不快そうに眉を顰めた。重苦しい空気が流れる。

「それって、つまり……」

「出て行って」

「私に、そんな口を利いていいの……?」

 ルルの青い瞳が、禍々しいほど強く輝いた。恐ろしくも美しい。圧倒されて、爪先から頭の天辺まで、ぞぞ……と肌が粟立つ。
 今なら、信じられるかもしれない。ルルは――リヴィヤンタン。見るものを魅了し、堕落させる、恐るべき闇の生き物。魂を抜かれた人間は、未来永劫、昏い闇に囚われる――。

 ――殺される……っ!

「――っ、んぅ!」

 目をぎゅっと閉じたら、唇を奪われた。試すように、唇の割れ目を舌でつつかれる。絶対に開けるものかと、血が滲む程に唇を噛みしめて、頑なに拒み続けた。
 ゆっくりと顔が離される。
 そろりと目を開けて、後悔した。勿忘草わすれなぐさより尚青い瞳に、身も心も魅了されてしまう――。

「私がネネの傍にいるんじゃない、ネネが私の傍にいるんだ。ちゃんと言えたら、許してあげる」

「言うもんか! 何でも好きにできると思うな……っ!」

「ネネッ!!」

「お前なんかルルじゃない、出て行け!」

「――ルルだよ、傍にいるって、言え!」

「嫌だっ!」

 ルルを怒らせた。尋常じゃない程、空気が重くなる。
 全身から、ぶわっと冷や汗が噴き出した。暴れる身体を無理やり抱きしめられ……そこで意識は途切れた――。