PERFECT GOLDEN BLOOD

3章:Auオール revoirボワール - 3 -

 扉を潜り抜けると、地上は激しく雨が降っていた。重たい嵐雲らんうんから、つぶてのような雨が叩きつけるように降り注いでいる。
「嘘でしょ……」
 小夜子は茫然と呟いた。途方に暮れて空を仰いでいると、闇夜がぱっと昼のように閃き、次の瞬間、世紀末を告げるかのような雷鳴が轟いた。
「ひゃっ!」
 小夜子は耳を塞ぎ、壁際に張りついた。恐々と空を視れば、鉤裂かぎざき状に走る稲妻が、地上に落ちたところだった。
 邸は全ての窓に防音完備のシャッターが下りているので、外の様子はちっとも判らなかった。
 この嵐のなかを飛びだしていくのは、いくらなんでも正気の沙汰ではない。
 ともかくなかへ入ろうと、小夜子が小走りで薔薇苑の小径こみちを走っていくと、角を曲がったところで千尋と鉢合わせた。
「小夜子!」
「きゃっ」
 千尋は裾まで覆う雨合羽を着ており、庭仕事の道具の入ったラタンの籠をぶらさげていた。小夜子が肩にかけているトートバックを見て、小首を傾げる。
「どこへいくの? 酷い嵐よ。これからもっと酷くなるわ」
 千尋に優しく腕を撫でられ、小夜子は返事を躊躇った。なにから説明すればいいのか判らない。千尋は心配そうな顔つきになり、
「ごめんなさい、立ち話じゃ濡れるわね。なかに入りましょうか」
「あの、千尋さん」
「ウルティマスと話したのでしょう?」
 びっくりする小夜子を見て、千尋はほほえんだ。
「私にも天啓があったの。小夜子を迎えにいきなさいって」
「彼は、本当に神様なの?」
「そうともいえるわ。森羅万象に影響する、現実世界から超俗した高次元の存在よ。私たちの生みの親でもあるの」
「私たち?」
「ええ。私たちVを創ったのは、ウルティマスなのよ」
 不得要領に頷く小夜子を見て、千尋はほほえんだ。
「良かったら、今夜は私の母屋に泊まっていって。すぐそこにあるから」
 小夜子は考えこむように、爪先に視線を落とした。
 反論されることを想定して、説得の方法を頭の中で組み立てていた千尋は、小さく頷く小夜子を見て胸を撫でおろした。
「……ご迷惑でなければ」
「歓迎するわ」
 心からの言葉だと判る暖かな笑みを見て、小夜子も安堵の笑みを浮かべた。
 母屋というのは古色蒼然こしょくそうぜんとした教会のような佇まいで、黄金の葉をつけたポプラに燃える緑が囲んでいた。
 尖塔のついた石造りの建物は、大きなステンドグラスの窓をもつ、教会を思わせる造りをしており、入り口の扉の上にも、扇状のステンドグラスがある。初めて見た時から、想像を掻き立てられる建物だった。
 千尋は裏口にまわり、お勝手の裏口の扉を開けて、小夜子をふり向いた。
「どうぞ、入って」
「おじゃまします……」
 小夜子はお辞儀をしてから、なかへ入った。と、軽快な足取りで駆けてきた大きなボーダコーリーの熱烈な歓迎を受けた。主の帰還を喜んで、しきりに尻尾を振っている。
「武蔵っていうの。大人しくて、とってもいい子なのよ」
 千尋は武蔵を撫でながら、小夜子に笑みかけた。
 賢そうなアンバーの瞳が小夜子をじっと見つめている。だぁれ? と問いかけられているようで、小夜子は思わず笑顔になった。
「初めまして、武蔵」
 そっと頭を撫でると、しっぽをふりふり、親愛の証のようにぺろりと掌を撫でられた。
「かわいいっ」
「うふふ、武蔵も小夜子のことが好きみたい。きっと気があうのね」
 そういって千尋は台所に入ると、天井の中央から垂れさがっている電燈を点けた。筒型の、薔薇色の和紙を傘にしたもので、部屋を柔らかな光で満たした。
 台所は、千尋の好みがたぶんに反映された空間だった。
 奢侈しゃしな樫材の机に、生成きなりに白い格子の卓布がかけられている。そのうえに置かれた、赤い薔薇の活けられた細長い硝子の一輪挿し。お菓子の詰まった、薔薇色の和紙を円くはられた小箱。
「林檎ジュースはいかが?」
 千尋の言葉に、小夜子は笑顔で頷いた。
「ありがとうございます」
「そこに座ってちょうだい」
「はい」
 小夜子は木彫りの椅子を引いて腰をかけた。と、金の燭台に立てられた、七本の蝋燭がぱっと燃えあがった。
(えっ)
 小夜子は驚いて炎を凝視し、千尋を見たが、彼女は背を向けて機嫌よさそうに音楽を口ずさんでいる。
(……彼女も不思議だわ。本当は何歳なんだろう? 全然年下という感じがしない……)
 嵐の音に窓を見れば、クッションの上で蒼灰色の猫、環が寛いでいた。
「はい、どうぞ」
 千尋は、江戸切り子の硝子杯に、冷えた林檎ジュースを注いでだしてくれた。
「ありがとうございます」
「少し待ってちょうだいね」
 そういって今度は、とれたばかりのほうれん草とそら豆をゆで始めた。鼻歌まじりに台所に立つ千尋の姿は堂に入っており、日ごろから家事をしていることがうかがえた。
「お料理、お好きなんですか?」
「ええ、好きよ。昔から趣味なの」
 彼女が手作業している間、小夜子は興味深く部屋を眺めまわした。
 磨きこまれた寄せ木張りの床、柔らかい照明、絵の描かれている衝立、多彩な骨董や調度で溢れかえり、ノスタルジーな香りがする。そしてアンティークなレコードからは、異国情緒に溢れた旋律が流れている。
「これは、なんていう歌ですか?」
「ペルシアの民謡バラッドよ、お気に入りなの。昔から、哀切のある音楽に惹かれてしまうのよね」
 千尋が鍋をざるにあけると、ほうれん草とそら豆のいい匂いが漂い、小夜子の空腹を刺激した。
「お待ちどおさま。さ、召しあがれ」
 瑞々しい緑のほうれん草に、しょうゆをかけてだされる。小夜子は一口食べてみて、そのあまりのおいしさに口元を押さえた。
「美味しい……」
 千尋はにっこり笑った。
「良かった」
「こんなに美味しいそら豆、初めて食べました。ほうれん草も、すごく美味しい」
 とても甘くて、この世のものとは思えぬほど美味。
 感動している小夜子を見やり、千尋は金と紅の瞳を和ませた。
「ねぇ、小夜子。ルイのことがお好き?」
 小夜子は、口に含んだジュースを危うく吹きだしかけた。
「隠すことはないわ。ルイは小夜子に夢中なのよ。二人がうまくいってくれたら、私も嬉しいのだけれど」
「……私じゃ、不釣りあいですよ」
「少しも不釣りあいじゃなくてよ。どうしてそうお思いになるの?」
 小夜子は答えあぐねて、俯いた。
「あの子は、色々な経験をしてきたけれど、誰かに恋をしたのは貴方が初めてよ、小夜子」
 そういう千尋は、とても十五の少女には見えなかった。達観した眼差しは賢者のそれで、儚げな美少女の面影に、成熟した女性の姿が重なって見える。
「……ルイさんにもいわれたけれど、私なんかを好きになってくれるとは思えないし」
 卑屈になる小夜子を見て、千尋は苦笑をこぼした。
「本当よ。ルイに無作法があったとしても、赦してやってちょうだい。小夜子を想っていることは、紛れもない事実なの」
「……」
「小夜子とルイは、恋人なのよね?」
「違いますよ」
「そうかしら? 彼の傍にいて、いい香りがしなかった? 心まで蕩けてしまいそうな」
 小夜子の顔を注意深く観察して、千尋は確信を得た。やはり、彼女はルイの伴侶なのだ。
「ねぇ、小夜子。黙ってここをでていったりしないで。もう一度、ルイとよく話してみてちょうだい」
「……」
 千尋は辛抱強く返答を待ったが、小夜子は俯いたまま顔をあげようとしなかった。
「判ったわ、これ以上は詮索しない。私は温室で庭仕事してくるけれど、好きに寛いでいてね。本でも映画でも、好きに見てちょうだい」
 千尋は優しく声をかけて、静かに椅子を立った。小夜子は思わず顔をあげて、縋るように千尋を見た。
「千尋さんの作業を、見ていてもいいですか?」
「もちろんよ」
 千尋はにっこりした。小夜子は安堵し、彼女の後ろをついて硝子温室に入ると、草花と、大地の豊潤な香に包まれた。
「わ、素敵……」
 台風に備えて、小さな鉢などは温室に移してあるようだ。
 天空は荒れているが、温室のなかは隔離された別世界のように安定している。
 白い錬鉄製のテーブルと揃いの椅子、使いこまれたラタンの椅子が置かれており、そちらへ腰をおろした。よく磨かれた硝子は透度が高く、庭仕事をしている千尋の姿が、くっきりと見える。
 温室にはかわいらしい陶器の照明が配置され、仄かに照らされ、お伽噺のように幻想的だ。
 エプロンに軍手姿の千尋は、道具の入った手提げ袋を片手に、傍には西洋梨の樹の方へ歩いていった。幹の傍の生垣では、遅咲きの菫と、鈴蘭が咲いている。
 千尋は腰をかがめて、銀緑色の葉をかきわけ、土の手入れを始めた。日常からしているのだろう。一つ一つの所作に迷いがなく、手際が良い。
 小夜子は気持ちが安定していくのを感じていた。彼女の閑雅かんがで優しい仕草を見ているだけで、不思議と癒される。この苑だけ、外界と切り離されているようだ。
「小夜子」
 と、背中に声をかけられた。驚いて振り向くと、ルイが温室の扉に立っていた。
 千尋は身体を起こして、何もかも知っている、という顔で二人を見た。
「二人でよく話すといいわ」
 そういって千尋は、腰をあげると、エプロンをはたいてから温室をでていった。