PERFECT GOLDEN BLOOD

2章:美しい館ベル・サーラの住人たち - 3 -

 部屋着にきがえた小夜子を見て、ルイは表情を綻ばせた。
「かわいいね」
 小夜子はもじもじとショートパンツのフリルを触りながら、
「ありがとうございます……」
 彼も部屋着にきがえたようで、上は白いVネックのTシャツ、下は履き心地のよさそうなカーゴパンツというラフな格好をしている。ごくありふれた恰好なのに、ルイが着ると洗練されて見えるから不思議だ。
(格好いい人は、何を着ても恰好いいんだ)
 感心しながら、ちらちらと小夜子が見ていると、ルイは小さく笑った。
「おかしいかな?」
「いえ! そんなことは……似合っています」
「ありがとう」
 ルイは魅力的な笑みを浮かべた。とろりと甘い眼差しに小夜子は朱くなり、ごまかすように両腕で自分をだきしめた。ルイは少し目を瞠り、
「寒い?」
「あ、いえ。ちょうどいいです」
 小夜子はすぐに腕を解いたが、ルイは自分の部屋に入り、黒いパーカーを手に戻ってきた。前にジッパーがついていて、Vivienne Westwoodのオーブのロゴが刺繍されている。
「大きいかもしれないけど、羽織るといいよ」
「ありがとうございます……Vivienne好きなんですか?」
 戸惑いつつ、小夜子はパーカーを受け取った。
「嫌いではないよ。というか千尋の趣味なんだ。彼女は着道楽でね、服に頓着しない奴を見かけると、喜んで衣装係になるんだよ。小夜子も気をつけた方がいい」
「そうなんですか」
 小夜子はほほえんだ。パーカーを羽織ってみた。毛布みたいに大きい。爽やかな匂い、ルイに包みこまれているみたいだ。
「いいね。小夜子が僕の服を着てる……」
 手を口元にあてて、ルイは感動したように呟いた。小夜子を四方から眺め回して、満足そうに頷いている。
 所有欲の滲んだ言動に、小夜子の胸は高鳴った。彼は、小夜子の傍によると、袖から手がでるように幾重にも折り返した。華奢で小さな女の子になった気分がして、くすぐったい。
「ありがとうございます」
 はにかみながら小夜子がいうと、ルイはにっこり笑った。
「すごくかわいいよ。そのパーカーはあげる」
「え? でも、」
「遠慮しないで。小夜子に着ていてほしいんだ。ね?」
「……いいんですか、本当に?」
「Mais oui」
 ルイのまばゆい笑顔を直視できず、小夜子はそっと視線をそらした。
「ありがとうございます」
「うん。さて、ゲストルームにいこうか。食事の用意ができているよ」
 腕をとられて、小夜子はどきどきしながら頷いた。
 彼は二階の部屋に小夜子を案内した。
 瀟洒な部屋の中央に、ダマスク織の豪華なクロスをかけた長テーブルが置かれている。台座が孔雀の形をした、銀の燭台が三つ灯されていて、瑞々しい薔薇が活けてある。床には精緻な紋様の楕円形のペルシア絨毯、天上には無数の水晶が垂れさがる円環照明が吊るされている。
「ここに座って、Mademoiselleマドモアゼル
 ルイは気取った仕草で飴色の椅子を引いた。小夜子がおずおずと腰をおろすと、彼も対面の席についた。
 格調高い晩餐の空気に畏まる小夜子に、ルイは気さくな笑みを向けた。
「大仰しくてごめんね。今夜はジョルジュも張り切っているんだと思う。お客様を迎えることは滅多にないから」
「そうなんですか? こんなに素敵なお邸なのに」
「ここの住人は、客がくることを嫌うんだ。もちろん、小夜子は別だよ。君は僕の大切なお客さま」
 小夜子は照れつつ頷いた。彼のこうした甘い言動は、標準装備だと思った方がいい。いちいち動揺していては身がもたない。
「ご迷惑でなければいいのですけれど」
「迷惑なものか。無理をいってきてもらったのは、こっちの方だよ。気になることがあれば、遠慮なく何でもいってね」
 その口調はどこか浮かれている。本当に歓迎されている気がして、小夜子はほほえんだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして、小夜子」
 甘い眼差しに見つめられ、小夜子の胸はまたしても高鳴った。心を落ち着けようと視線を彷徨わせたところで、ちょうどジョルジュがやってきた。彼は銀のカートを引いており、真鍮のクロッシュで覆われた皿から、いい匂いを漂わせている。
 前菜として、色とりどりのパプリカと生ハムの煮込みを、柔らかく火を通した卵に混ぜこんだ料理が供された。盛りつけの美しさに小夜子は目を瞠っていると、ルイはワインボトルを開けて、小夜子のグラスに傾けた。
「飲みやすい微発泡性のワインだよ。一口飲んでごらん」
「ありがとうございます。いただきます……」
 格調高い部屋の雰囲気と手のこんだ料理に、赤ワインはぴったりだった。前菜をフォークで口に運び、小夜子は笑顔になった。
「美味しい」
 ルイもにっこりしている。
 そのあとも、ほうれん草と鶏肉のサラダ、カルパッチョと続き、メインに鯛や浅蜊あさりとたっぷりの野菜を煮た、一皿が供された。どの料理も手がこんでいて、頬が落ちるほど美味しい。贅を尽くした料理、というよりも家庭料理に通じる優しい味つけなのがまたいい。
 噛みしめながら食べる小夜子のグラスに、ジョルジュは水を注いだ。
「お味はいかがですか?」
 低く、上品なバリトンで訊ねられ、小夜子はぱっと顔をあげた。頬を染めながら、美味しいです、と消え入りそうな声で応えるのを、ルイはじっと見つめていた。視線がぱちっとあい、小夜子は不思議そうに首を傾げた。
 ルイはふいと視線をそらし、なんとなく、すねているような口調でいった。
「小夜子はジョルジュを気にしすぎだよ」
「……すみません」
「ううん、謝らないで……僕のどうしようもない嫉妬がいけないんだから」
 小夜子は赤くなって俯いた。彼の言動がいちいち甘いのは、標準装備、リップサービスなのだといい聞かせていても、口説かれていると錯覚してしまいそうになる。
 デザートには、いい香りのクレープシュゼットがだされた。ジョルジュは熟練の手つきで、螺旋状に剥いたオレンジの皮づたいにブランデーを垂らし、青い炎を燃えあがらせた。
「わぁ」
 小夜子が思わず感嘆の声を漏らすと、ジョルジュは嬉しそうに笑った。
「珈琲、紅茶、エスプレッソ、ハーブティー、どれにいたしましょう?」
 小夜子は紅茶を、ルイはエスプレッソを頼んだ。
 食事を終えて紅茶を飲む頃には、小夜子はすっかり寛いでいた。こんなに贅沢な晩餐は生まれて初めてである。
「とっても美味しかったです」
 部屋をでる時、小夜子は心からの感謝をこめてジョルジュにいった。
「ありがとうございます、お嬢さま。お気に召していただけて、何よりでございます」
 ジョルジュは嬉しそうにほほえんだ。
 すっかり満足して部屋に戻ると、ルイは思いだしたようにポケットに手をつっこみ、紅茶色の布で包装された小箱をさしだした。
「あげる」
「え?」
 小夜子は戸惑った表情で受け取り、RAVENと印字されたタグを見て、はっとなった。慌ててルイを見ると、彼は悪戯が成功したような表情を浮かべていた。
「色々あったけど、今日のデートの記念に」
「これ、RAVENって」
「開けてみて。欲しそうにしていたから」
 包みを開けると、あの時じっと見ていたオルゴォルが入っていた。高額だとか申し訳ないとか、そういった遠慮も芽生えたが、それ以上に大きな歓喜が小夜子を貫いた。
「これ、欲しかったの!」
 興奮した様子の小夜子を見て、ルイは破顔した。
「だと思った。喜んでもらえたかな?」
「それはもう……っ! え、でも、いいんですか? 結構いいお値段な気が」
「気にしないで。小夜子に喜んでもらえて嬉しい」
「うわぁ、ありがとうございます……っ」
 小夜子はオルゴォルをじっくり眺めて、発条ぜんまいを回した。硝子蓋のなかで青と半透明の水晶がきらきらと光り、清らかな旋律が流れだす。幻想的でノスタルジーな世界に誘われて、自然と目を閉じた。
 そうして美しい音色にしばらく耳を澄ませていたが、ルイのEh Bienビアンという声に我に返って顔をあげた。
「このあとはどうする? 部屋で休みたい? それともテレビでも見る?」
 小夜子は手のなかに大切なオルゴォルがあることを意識しながら、時計を見た。まだ夜の九時だ。テレビを見ると答えると、ルイは甲斐甲斐しく紅茶を淹れてくれた。ソファーに座ってバラエティ番組を見始めたものの、間もなく小夜子は眠気をもよおした。今日は色々あったから、疲れたみたいだ。
「なんだか眠くなってきました……やっぱり休もうかな」
 そういって席を立つと、ルイも一緒にたちあがった。きょとんとする小夜子を見下ろし、どこかうかがうような口調で、
「一緒に眠ってもいいかな?」
「へ?」
 呆気にとられる小夜子を見て、ルイはほほえんだ。
「何もしないって約束するよ。ただ、隣で横になって眠りたいだけなんだ。いいかな?」
 いいわけがなかった。冗談かと思ったが、彼はじっと小夜子の返事を待っている。
「それは、ちょっと……」
 苦笑いを浮かべる小夜子を、ルイはじっと見つめた。
「僕が怖い?」
「えーと、そういうわけじゃ……」
「今夜はすごく怖い思いをしたでしょう? 君を独りで眠らせたくないんだ」
「や、でも」
「僕が傍にいるんだから、布団のなかで丸まって眠る必要はないよ」
 小夜子は驚いてルイを見た。この人はなぜ、知っているのだろう。いつもそうして一人で、怖い夜を凌いできたことを。
 窓を閉めていても、ドアに鍵をしていても、昏いものたちは部屋に入ってくる。枕元が沈みこむ恐怖を、何度も経験してきた。知らないふり、聴こえないふりをして、おまじないのように数字をかぞえるのだ。今夜もそうなるだろうと思っていたのに……
「一緒にいれば怖くないよ」
 逡巡し、小夜子は小さく頷いた。オルゴォルを机の上に置いて、ベッドに並んで横になった時、後悔が頭をもたげたが、ルイは優しく小夜子を腕のなかに引き寄せてしまった。
「しぃ……瞳を閉じてごらん」
 髪を梳きながら、耳元で優しい旋律を口ずさむ。男の人に、そんな風に甘やかされたことがない小夜子は、どうしていいか判らなかった。
「大丈夫、怖くないよ。僕がついている」
 慰めの言葉が、小夜子の胸を打った。どうして、こんなにも安心するのだろう? 胸が熱くなり、なんだか泣きそうになってしまう。
「よく頑張ったね。偉いね。怖い思いをしても、ちゃんと耐えてきたんだ」
 どこまでも優しい労りに満ちた声だった。小夜子の苦節困難に同情し、励ますような響きを帯びていた。
 小夜子は瞬きをして涙をこらえた。言葉にしたら、嗚咽がこぼれてしまいそうだった。
 ルイはゆっくりと身体を起こし、小夜子の目じりに滲んだ涙を指でぬぐった。こちらを向くように掌で頭を支えられ、銀色の瞳と遭う。夜闇のなかでも、彼の瞳は淡い光彩を帯びていた。
 魔性の瞳だ。ルイはゆっくりと顔を寄せてくる……いくらでも逃げられたはずなのに、小夜子は動くことができなかった。そっと唇が触れて、表面がこすれあう。下唇を、尖ったもので甘く食まれた。
(……牙?)
 疑問に思うが、すぐにどうでも良くなった。彼の唇に陶然となる。
 唇を吸われている間に、奇妙な光景が眼裏に閃いた。彼の二本の牙が小夜子の首にくいこみ、恍惚のなかで血を吸われるというものだ。
 唇が離れたあと、しっとり濡れた唇を親指でぬぐわれ、小夜子はルイの胸のなかに倒れこみそうになった。腕に手を添えると、掌に筋肉の収縮が伝わってきた。鋼のような感触にはっとなる。
 顔をあげて、彼の目を見た瞬間に小夜子の顔は強張った。ルイの双眸は瞳孔が縦に伸びて、虹彩のまわりに金の粒子が瞬き、紫水晶のように煌いている。
 魅入られながら、ある幻想――彼の黒髪のあいだから、巻きあがる二つの角が伸びて、背には黒い翼がある――に捕らわれていた。月を背に立つ姿は魔性そのもので、美しさと、正体不明の困惑に慄然りつぜんとなる。
「小夜子?」
 ルイの言葉に、小夜子は我に返った。
「あ……」
「“目を閉じて。眠って”」
 その声には催眠効果でもあるのか、小夜子は急激に眠気をもよおした。目を閉じると、瞼に柔らかなものが触れた。ルイの唇……ときめきにも似た、漠とした感情が胸に拡がった。
(どうして、そんな風に触れるのだろう……?)
 遥か昔から彼を知っているような、お互いを探し求めていたような、奇妙な飢餓感と焦燥。触れられる距離にいる安心感……様々な感情が胸を過るが、眠気の方が勝った。
 眠りに落ちる瞬間、瞼の奥に、黒髪を風になびかせ、背に翼をもつルイの姿がちらついていた。空想のはずなのに、美しい魔物と目が遭った気がした。